その やわらかな陽射の中へ・・・




 やわらかな春の朝陽・・・

 水面(みなも)にキラキラと照り映える・・・



 赤みを帯びた暖かな光のローブを纏ったような小さな建物・・・

 ネオ・ヴェネツィアの観光名物・ゴンドラの運営会社 エコー・コーポレーション・・・

 水路に向かい大きく開けられた窓から一人の少女が顔を出す。



 年は15歳くらい・・・

 編み上げてまとめられた長い髪がそよ風にゆらゆら揺れる。

 その瞳には小さな宝石をちりばめたような光の欠片たちが映し出される。



 「うわ〜〜〜、すごいきれいな朝〜〜〜」


 朝陽に向かって両手を広げる。

 そのまま深呼吸をひとつ・・・

 朝のすがすがしい空気を一人占めしたような気分になる。



 「なんだか、素敵なことが起こりそうな予感・・・」

 「まあまあ、亜沙里ちゃん。おはようさん。」

 「あ、彩音さん!おはようございます!!」



 水の妖精に由来した名を持つ水先案内人 ウンディーネ・・・

 ネオ・ヴェネツィアの舟・ゴンドラには欠かせない乗組員・・・

 ゴンドラ協会に認められた女性だけがなることを許された《ちいさな観光大使》・・・

 亜沙里と彩音もそんなウンディーネである。


 少数のメンバーによるアットホームさがモットーのエコー・コーポレーション・・・

 そのトップウンディーネの安奈彩音・・・

 そして彼女にとって久々にできた後輩の朝倉亜沙里・・・

 この二人が、この小さな会社のウンディーネの全てである。


 そのほかの従業員はというと・・・

 ある理由でウンディーネになることを諦めたが事務やら何やらの手伝いを続けるアオイ・チャン。

 そしてもうひとり・・・・


 「にょ〜〜!!」

 「あ、おはようございます、モノ社長!!」

 「ふふふ、モノ社長、おはよう!」

 「にょにょ〜!」


 アクアの特有種・火星(アクア)猫のモノ社長・・・

 白黒のブチ模様を身に纏い、バラエティーあふれる外見のアクア猫の中ではオーソドックスだ。

 一見すると地球(マンホーム)の猫に見えるが、鳴き声が独特である。

 また、知能も人間の子供と大差ない程度は持ち合わせていると思われる。

 恐らく地球猫と火星猫の雑種化の影響もあるのだろう・・・


 水先案内会社は、安全祈願の意味を込めて、青い目(アクアマリンの瞳)の猫を社長に据える・・・

 海の女神《アクアマリン》にまつわる慣わし・・・

 それは今でも健在である・・・


 猫が社長になることに驚く地球出身の人は少なくない。

 だが、亜沙里も彩音も当然のことのように受け止めていた。



 3人と一匹。

 これで全員。

 従業員が100人近い大手水先案内店もあるネオ・ヴェネツィアの中では1,2を争うコンパクトな店だ。

 だが、かつてマンホームに伝わっていた諺 『山椒は小粒でもピリリと辛い』・・・

 それを地で行くような店だ。

 規模も小さい。

 設立もつい最近。

 それでも、営業活動をわざわざしなくてもそれなりにお客さんが来てしまう・・・

 そんな魅力を持った店・・・

 彩音の人柄によるところが大きいのは言うまでもない。


 もちろん、訪れる客数はそれほど多いわけではない。

 当然、売り上げもさほど上がってはいない。

 それでも、彩音はよしとしている。

 『一人一人のお客様を大切に、家族のようなもてなしを・・・』

 それが彼女の信念だから・・・




 「じゃあ、練習 行ってきま〜す!!」



 ウンディーネの制服に身を包まれた亜沙里が元気に挨拶して店から出ようとしたとき・・・



 「あ、亜沙里ちゃん。今日はわたしも付き合うわね。」



 彩音が声をかけてきた。

 満面の笑みを浮かべながら・・・


 「彩音さん、いいんですか?」

 「うん! 今日はお仕事夜に一軒だけしか入ってないから、ネっ!」

 「ありがとうございます!!よろしくお願いします!!」

 「ふふふふ・・・」


 彩音のやわらかな笑顔・・・

 亜沙里はそれがたまらなく好きだ。

 いつも以上に表情が輝きを増す。


 彩音の手が空いたときだけ許される 至高の幸福・・・

 《素敵な先輩》と一緒にウンディーネ修行ができること・・・

 神に感謝を隠しえない亜沙里だった。


 一方の彩音もかつてないほどの充実感を感じていた。

 《かわいい後輩》に自分の持っている全てを伝授してあげたい・・・

 新たなる生きがいに胸は限りなく膨らむ。



 「にょにょにょ〜〜〜〜!!」

 「あ、モノ社長も来ますか?」

 「にょにょにょ!!」


 カギ型に曲がったしっぽを振り振り駆けてきたモノ社長・・・

 右前足を人間の手のようにひょいと上げて返事する。

 身軽な動作で亜沙里の肩にポンと飛び乗る。


 「じゃあ、行きますか!」

 「にょ〜〜!!」

 「ふふふ・・・」


 ふたりと一匹はいつもの練習場に向かった。

 あたたかな陽射しに包まれながら・・・





 純白のセーラー服を思わせる装束のウンディーネ服が陽射しに輝く。

 店のマークが入ったオールを持つ亜沙里の両手にはピンクの手袋・・・



 「じゃあ、漕いでみて。」

 「はい!! 亜沙里、いっきま〜す!!」

 「にょっ!」


 亜沙里はゆっくりとオールで水を掻きはじめる。

 黒塗りのゴンドラは静かに進み始める。

 一筋の航跡を描きながら・・・



 「まあ、ずいぶん上達したのね、亜沙里ちゃん。」

 「えへへ・・・ がんばった甲斐があります!!」

 「にょ!」


 少し得意げな亜沙里。

 マネをするように胸を張るモノ社長。

 そんなふたりを微笑みながら見つめる彩音・・・



 『ふふふ・・・これならだいじょうぶね。』



 何かを決意したかのような笑みを浮かべる。



 「ねえ、亜沙里ちゃん。今日はちょっとだけ遠出、してみない?」

 「え!?、いいんですか!?」

 「うん! いつまでも近場ばかりじゃ練習にならないでしょ?」

 「そ、そうですね!! やったぁ!いろんな景色、見れるかもぉ!!」

 「にょにょ〜!!」

 「そうね。すごくいい場所、教えてあげる。」



 真意を隠したまま遠出を促す彩音。

 亜沙里も社長もノリノリだ。

 一度店に戻り何やら準備をしている彩音・・・

 どうやら昼食のランチボックスを用意したようだ。



 「じゃ、あらためてぇ、出発進行!!」

 「ん、がんばってね!!」

 「にゅっ!!」



 亜沙里は再び漕ぎ出す。

 より遠くへと・・・

 『がんばってね!!』の本当の意味も知らずに・・・






 ほかの舟とぶつかるのではないかと思われるような細い水路・・・

 一筋縄でいかない複雑な水流・・・

 オールを持って間もない亜沙里にとっては決して楽な道のりではない。

 むしろ、何度か音を上げそうになった。

 それでも・・・



 「ファイト!!もう少しよ!」

 「にょにょにょっ!!」


 彩音とモノ社長に励まされ、ひたすら漕ぎ続ける。

 そして、水路の行き止まりと思われる場所に到着した。



 「彩音さん・・・行き止まり・・・」

 「姉ちゃん、ここ初めてかい?」

 「ほへ?」



 亜沙里に応えたのは彩音ではなかった。

 いすに腰掛けたおじさんがニコニコしながら亜沙里のゴンドラを見ている。



 「行き止まりじゃ・・・ないんですか?」

 「おうよ、待ってろ。 今開けてやるからな。」



 おじさんは何やらスイッチを操作している。

 すると、行き止まりと思われた水路の先端が音を立てて拓けていった。

 壁に見えたのは扉だったようだ。



 「亜沙里ちゃん。入って。」

 「へっ!?は、はい。」



 扉を通り抜けるゴンドラ・・・

 まもなく更なる壁・・・いや、扉が立ちはだかる。

 再びゴンドラを止める亜沙里・・・

 すると、背後の扉が再び閉ざされた。



 「ほへっ? な、なんだろ?!」 

 「ふふふふ・・・ 亜沙里ちゃん、びっくりしないでね?」

 「え?・・・って・・・なにっ!? み、水っ!?」

 「にょぉ〜〜〜〜っ!?」



 扉と壁に囲まれた空間・・・

 亜沙里たちのゴンドラが浮かぶ水面に止め処なく水が注がれていく。

 徐々に水位が上昇していくのが感じられる。


 「これはね、水上エレベーターよ。」

 「エレベーター?!」

 「うん。川をせき止めて水位を自由に変えて、上流と下流を昇り降りできるのよ。」

 「へえ〜・・・そうなんだ・・・」



 安全だとわかると急に好奇心が活発になる亜沙里。



 「うわぁ〜・・・ なんだかゴンドラが空を飛んでるみたい・・・」

 「はずかしいセリフ禁止!!」

 「ええっ!?」

 「ふふふ・・・ 冗談よ。」

 「にょにょっ!」



 いたずらっぽい笑顔の彩音。

 この上ない幸福感があふれ出している。



 「彩音さん、なんだか嬉しそうですね?」

 「うん。亜沙里ちゃんというかわいい、素敵な後輩ができたから、とっても幸せなのよ。」

 「・・・は、はずかしいセリフ・・・」

 「・・・禁止なの?」

 「き、禁止じゃないですっ。 うれしいですっ!!」

 「ふふふふ・・・・」

 「にょにょぉ〜〜」



 幸福の二人と一匹を乗せ、ゴンドラはゆったりと《舞い上がる》。


 そして・・・30分ほど経っただろうか・・・




 「よぉ〜、姉ちゃん。」

 「え?! あ、おじさん。!?」



 先ほどエレベーターの入り口に座っていたおじさんだ。

 ここまで階段を上ってきたらしい。



 「おじさん、姉ちゃんたちを見てたら、何だかすごく懐かしい感じがしたよ。」

 「へ? ・・・懐かしい・・・ですか?」



 初めて会うおじさんに《懐かしい》と言われた・・・

 不思議な感じがする亜沙里・・・



 「ああ、ちょっとな。・・・無事戻ってこれたら聞かせてやろうか、その訳をよ!」

 「はいっ!!お願いします!!」



 出口の扉が開け放たれる。

 振り向き、おじさんに手を振る亜沙里。



 「じゃあ、行ってきま〜す!!」

 「ああ。無事帰ってこいよぉ!!」



 ゴンドラはゆっくり進んでいく。

 おじさんの影がだんだん小さくなり、やがて見えなくなる。

 正面に向き直る亜沙里の目に飛び込む景色・・・



 「うわぁ〜・・・ 結構遠くまで来たんですね・・・」

 「ふふふ、そうね。もうひと頑張りよ。」



 さらに進んでいくと、また先ほどと同じようなエレベーターがあった。

 赤い光で下向きの矢印が表示されている。



 「亜沙里ちゃん。降りてくるお舟が来るわ。道を明けてあげてね。」

 「あ、はい。」



 扉が開き、姿を現した舟は、亜沙里と同じ黒いゴンドラだった。

 ベテランと思われるウンディーネを乗せて、若いウンディーネがオールを持っている。

 亜沙里と同じくらいの年頃だ。

 右手だけに手袋をはめている。



 「あの子・・・シングルだ。」



 ウンディーネの階級・・・

 なりたての見習い・両手袋(ペア)、

 半人前の片手袋(シングル)、

 そして晴れて一人前の手袋なし(プリマ)・・・



 営業運行は基本的にプリマのみに許される。

 シングルは、プリマの監視下により客を乗せることが許される。

 だが、ペアである亜沙里は、まだ客を乗せることは許されない。

 プリマの乗る《白いゴンドラ》に乗り合わせることも許されない。

 だから・・・客との接点はないに等しい。

 ウンディーネとして認められていないようなものだ。


 「・・・私も早くシングルになりたいなぁ・・・」



 対向舟の進路を確保しながら呟く亜沙里・・・


 「・・・頑張ってね! きっともうすぐよ!」

 「へっ!? あ、はいっ?!」



 すれ違いざま、シングルのウンディーネから声をかけられる亜沙里。

 びっくりして大きな目をいっそう大きく開く。

 シングルのウンディーネは笑顔で手を振っている。

 その表情は、実に晴れやかさに満ち溢れている。



 「あ、ありがとうございます!」

 「がんばれ!!フレーフレー!!新人さん。」



 エールを送り再びオールを漕ぎ出すシングルウンディーネ・・・



 「ふふふふ・・・よかったわね、亜沙里ちゃん。」

 「はいっ!!」

 「じゃあ、行くわよ!」


 走り去るゴンドラを見送り、亜沙里のゴンドラは水上エレベーターに入る。

 ふたたび扉が閉ざされ、ゆっくりと水位が上昇していく。



 「あ、あの、彩音さん?」

 「ん? どうしたの、亜沙里ちゃん?」

 「さっきのシングルのウンディーネさん、なんであんな事言ったんだろ?」



 ゆっくりと上昇するゴンドラの中・・・

 亜沙里はどうしても不思議でならなかったようだ。

 若いウンディーネに言われた言葉が・・・



 「『あんな事』?」

 「『きっともうすぐよ』って・・・ 慰めかなあ・・・そうは見えなかったけど・・・」

 「ふふふふ・・・ もうすぐわかるわよ。」

 「・・・え?」



 なにかを隠している彩音・・・

 それが何か気になる・・・

 でも・・・


 『きっと・・・素敵なことじゃないのかな。彩音さん、あんなに嬉しそうだし・・・』



 とりあえず追求することをやめる亜沙里。

 走行しているうちにエレベーターから望む大空が大きく拓けてくる。

 エレベーターの終わりは近い。



 「開くわよ。」

 「はい!」



 開いた扉をくぐり抜ける亜沙里たちのゴンドラ・・・

 さわさわとそよ風が頬を撫でる。

 そして、視界いっぱいに広がる景色に目を奪われる亜沙里・・・



 「うわぁ・・・・・・・・・・・・・・・・」



 感嘆の音(ね)をあげたきり、言葉が出てこない・・・

 今まで見たこともない風景・・・



 なだらかな丘一面に広がる草原・・・

 無数に並ぶ風車がのんびりと回り続けている・・・

 そして、振り向くと、ネオ・ヴェネツィアが一望できる。


 豆粒より小さな舟たち・・・

 マッチ箱のような建物・・・

 キラキラと水面を輝かせるアドリア海は、まるで宝石を散りばめたみたいだ・・・



 目を奪われたままの亜沙里・・・

 彩音はそっと亜沙里の左手を取る。

 そして・・・やさしく手袋を外していく。



 「・・・彩音さん・・・?」

 「ふふふふ・・・亜沙里ちゃん、合格〜」

 「へっ!?」

 「おめでとう、シングル昇格!!」

 「へっ??う、うそ・・・」



 キツネに摘まれたような顔をする亜沙里・・・

 彩音はいつも以上に笑顔を炸裂させている。

 まるで、自分が昇格したかのように・・・

 否! それ以上の嬉しさを噛みしめているに違いなかった。


 他人の歓ぶ顔を見ることが何よりの幸福・・・

 彩音は、そういう性格の人なのだ・・・



 「この場所はね、《希望の丘》って呼ばれてるの。」

 「・・・希望の・・・丘・・・」

 「でね、ここまでの道って、細かったり水流が複雑でしょ?」

 「あ、そういえばそうだったかも・・・」

 「で、ここまで無事に自力で漕げたウンディーネは、もう見習いじゃなくなるの。」



 亜沙里は手袋から開放された左手をじっと見つめる。

 指先が陽射しに照らされ光り輝く。

 まるで 勝ち得た《自由》を謳歌しているかのように・・・



 「これで、亜沙里ちゃんも私のゴンドラで助手、できるわね。」

 「はいっ!!頑張りますっっ!!!」

 「にょにょっ!!!」



 一日中彩音と一緒にいられる。

 お客さんの相手をする練習もできる・・・否、お客さんとお話ができる・・・

 練習だって、今まで以上に見てもらえそうだ。

 なんて素敵なことだろう・・・



 「・・・でね、この《昇級試験》のことは、その人が合格するまではナイショなのよ。」

 「へぇ〜、そうなんですかぁ」

 「うん! 舟に関係する人で知らないのは見習いウンディーネだけ・・・」

 「そっか・・・・だからさっきのウンディーネさんも・・・」

 「あの子も亜沙里ちゃんと一緒だったのね。だからその喜びを分かち合いたかったのかもね。」




 《希望の丘》にゴンドラを止め、ランチボックスを開く・・・

 彩音のお手製サンドイッチにサラダ・・・

 決して豪華ではないが、いかにもおいしそうだ。


 「じゃあ、亜沙里ちゃんのシングル昇級を祝って!」


 グラスをかざす彩音と亜沙里・・・とモノ社長・・・


 「乾杯!!」

 「にょにょっ!!」

 カッキ〜〜ン


 乾いた音を響かせ合わせられる3つのグラス・・・

 もちろん、ゴンドラ乗務中のため『お酒は禁止っ!!』というわけでぶどうジュースだ。

 ちなみにモノ社長はミルクである。



 シングルへ昇級してからの初めてのご馳走・・・

 この美味を一生忘れない、と思った亜沙里であった・・・





 「じゃあ、そろそろ帰りましょ。」

 「あ、はい。」


 もっと景色を見ていたかったが、彩音には夜、予約が入っている。

 そろそろ戻らねばお客さんに迷惑をかけてしまうだろう。

 後ろ髪を引かれながらも今来た道を逆にたどる亜沙里・・・

 その顔には自信がみなぎっていた。



 水上エレベーターの扉が開く。

 中から姿を現す黒いゴンドラ・・・

 最後部でオールを操る両手袋のウンディーネ・・・

 ここまで必死にがんばってきたのだろう。

 彼女の顔には深い疲労の痕が刻みつけられている。



 『あれは・・・さっきまでの私かも・・・』



 亜沙里はすれ違いざまに・・・



 「ファイト!! もうすぐきっと《でっかいご褒美》があるよ!」

 「!!」



 疲れ果てていた若きウンディーネの瞳に、再び光が宿りはじめる。

 オールを持つ手にも力がこもっていく・・・



 「ありがとうございます!!がんばりますっ!!」

 「うん!!がんばってね!!」



 元気に手を振り去っていく若きウンディーネ。

 同乗のベテランウンディーネも安堵の表情を浮かべているのが見て取れる・・・


 水上エレベーターを今度は下っていく亜沙里たちのゴンドラ・・・

 ゆるゆると水位が下がっていくのが感じられる。

 幾分重力の呪縛が緩むのを体全体が感じていく・・・

 それは、亜沙里にとって初めての感覚・・・



 「なんか、ふんわりしている感じ・・・」

 「ふふふ・・・そうね。本当は重力、ほんの少〜しだけしか変わってないはずなのにね・・・」

 「不思議ですよねぇ・・・ なんだか、砂時計の砂にでもなったみたいな気分ですぅ・・・」



 昇りほどではないが、下りでもかなりの時間が掛かるのがこのエレベーター・・・

 極度に合理化されたマンホームでは存在することすら許さないであろう・・・

 でも、このアクアの人たちは、好きである。

 この、ゆったりのんびりした時の流れが・・・


 マンホーム生まれの亜沙里も、ここ数ヶ月のアクア暮らしですっかりアクア人に生まれ変わっていた。



 「いいなあ・・・こののんびりした時の流れ・・・」

 「うん・・・いいわよねぇ・・・」


 モノ社長はすっかり《夢の国の住人》へとなっていた・・・

 口元がなんとなく食事でもしているかのように動く・・・



 「ごはんの夢でもみてるのかしらね。」

 「きっとそうですよ。・・・おいしそうな顔、してるなぁ・・・」




 やがてエレベーターは下流へと拓ける。

 モノ社長を起こさないように、今まで以上に慎重に漕ぎ出す。


 高度を落とした太陽から 温かみの増した陽射しが降り注ぐ・・・

 次のエレベーターを降りるころ、日が沈んでいるかもしれない。

 夕暮れ迫るネオ・ヴェネツィアの景色もまた最高の味わいを持つ。

 ますますこの地に惚れ直した亜沙里であった・・・





 「よっ!! 姉ちゃん。その顔は無事成し遂げたっつう顔だな?」

 「あ、おじさん!! 無事シングルになっちゃいましたぁ!!」

 「おめでとさん! ・・・今開けるから待っててくれよ!」

 「はい!」



 おじさんが来た時と同じように扉を開く。

 亜沙里たちのゴンドラは下流へと降り始める。



 「そういえばよ、姉ちゃん。行きに話しかけていた事だけどよ。」



 エレベーターの上から再び声をかけてきたおじさん。


 「はい?」


 おじさんを仰ぎ見て返事する亜沙里。


 「あん時はよ、まだナイショだったから詳しく話せなかったけどよ・・・」

 「え?」

 「何年か前、姉ちゃんによく似た若いウンディーネの卵がここを通ったのを思い出しちまってさ。」

 「私に・・・よく似た・・・」

 「ああ。ここを通るウンディーネさんは無数にいるけど、あの子だけは忘れらんなかったな。」



 声が届かなくなるまでおじさんと話した亜沙里・・・

 おじさんの思い出に残るウンディーネの話・・・


 亜沙里と同じように目を丸くして・・・

 亜沙里と同じように瞳を輝かせて・・・

 亜沙里と同じように希望に胸を膨らまして・・・

 ここを飛び立っていった鳥のような若きウンディーネ・・・

 なぜかおじさんの胸に深く刻まれていたということであった・・・


 
 「なんだか、会ってみたいなあ、その人と・・・」

 「ふふふ、そうね。私も会ってみたいわ・・・」






 ゴンドラの降下が止まり、開かれる扉・・・

 亜沙里はおじさんに深々とお辞儀して挨拶をする。



 「おじさん、ありがとうございました! すっごく楽しかったです。」

 「おうっ、またいつでも来いや。・・・そいうや言い忘れていたな。」

 「え?」

 「あのウンディーネさんは、姉ちゃんと同じような《もみあげ》してたな。」

 「!!」



 おじさんの言葉で 亜沙里の脳裏に瞬時に浮かんだ笑顔のウンディーネ・・・



 「・・・亜沙里ちゃん、そのウンディーネさんって・・・」

 「はいっ! きっと間違いないです。」



 《もみあげ》のウンディーネ・・・

 亜沙里には心当たりがあった。

 いや、心当たりなどという生易しいレベルのものではなかった。


 今、亜沙里がここにいること・・・

 ウンディーネを志して日々特訓していること・・・

 全ての事の原点にいる たった一人のウンディーネ・・・

 亜沙里にとっての憧れのウンディーネ 《笑顔の逆漕ぎクイーン》に違いなかった。



 「そっか・・・あの人もこの道を通ったんだ・・・」



 かつて彼女も亜沙里と同じく両手袋の見習いだった・・・

 そして、やはり先輩に導かれこの道を通り、シングルへ・・・

 その後一人前のプリマまで上り詰め 亜沙里を乗せた・・・



 「・・・私もいつか・・・素敵なプリマになって、憧れてもらえたら素敵かも・・・」

 「うん! 亜沙里ちゃんならきっとなれるわ。」

 「大丈夫だ! このおじさんが保障するぜ!」

 「あ・・・ありがとう・・・」



 胸にこみ上げる熱い想い・・・

 亜沙里の両目からあふれ出していく・・・

 彩音はそっと背中から抱きしめた・・・








 「じゃあ、行くわよ。」

 「はいっ!!」



 すっかり暮れて夜のベールがネオ・アドリア海を深い色に染め上げた・・・

 予約していたお客さんがエコー・コーポレーションを訪れ、乗船の支度を終えた。

 ナイト・クルーズ・・・

 昼間とはまた違った輝きに包まれたネオ・ヴェネツィアをめぐる船旅・・・

 そして、亜沙里の初陣でもあった・・・



 夜の帳にも決して埋没しない白いゴンドラ・・・

 今までは乗ることが許されなかった 一人前用のゴンドラだ。

 これからは、助手として乗り込むことが許される。



 『白いゴンドラさん、これからお世話になりますね・・・』



 街明かりをキラリと反射する白いゴンドラ・・・

 亜沙里の挨拶に応えたかのようであった・・・







 「あら、可愛らしいウンディーネさんね。」

 「ホント、初々しくっていいな。」



 お客さんに誉められ少し照れくさい亜沙里・・・



 「えっと、この子は今日から私の助手をしてくれる亜沙里ちゃんです。・・・ほら、亜沙里ちゃん・・・」



 彩音に促され、お客さんに初めての挨拶をする亜沙里・・・

 これから始まる新たなウンディーネ生活に胸が膨らみ、特別の笑顔が湧き出してきた・・・




 「はじめまして!! 朝倉亜沙里です!! よろしくお願いします!!」








               〜〜〜〜〜〜〜おしまい〜〜〜〜〜〜〜〜




 《あとがき》

 なんか、つい書いてしまいました。

 天野こずえ先生の『ARIA』『AQUA』にはまってしまい、その世界観で書きたくなって・・・

 今回は主人公亜沙里がシングル昇格するときのお話でした。

 ちなみに灯里ちゃんが昇格した時って、まだ『AQUA』だったころなので、『ARIA』の

 コミックスには未収録なのです。

 『ARIA』を読まれて好きになられましたら、是非『AQUA』もお読みください。

 若干入手しにくいですが、本屋さんで注文できます。
 
 (って、マッグガーデンさんの宣伝みたいですね(笑))

 今回の私の作品も下敷きになっているのは『AQUA』のころのお話です。

 次回は亜沙里がウンディーネになりたいと決断するまでのお話・・・。

 『原作』のあの人も、あの人も、そしてあの方まで・・・出る予定です。

 では、水の惑星でまたご一緒出来る事をお祈りして・・・

 


背景素材:Queen's FREE World 様


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